こんにちわ。ソーシャルビジネスを日本に広めたい南(@minami_shiroInc)です。
私が(相対的)貧困家庭に生まれ、父から虐待をうけ、非行にはしった日々があったからこそ、「人のあったかさ」に心底気がつけたお話をしようと思います。
どん底の中から、「GTM(グレイトティーチャーミナミ)」になる夢をみつけ、挫折を味わいながらも、母や心友に救われたエピソードです。
目次
とても苦しかった貧困・虐待・非行の日々
私が生まれた家は、いわゆる(相対的)貧困世帯でした。
相対的貧困とは、等可処分所得の中央値の半分(貧困線)に満たない世帯。
平成27年時点では、世帯年収122万円以下(*1)。
正確にはすこーし定義と異なります。
父の稼ぎは貧困線を超えていたけど、「俺は小学生の時から自分で生活費を稼いでいた」と言って、私に教育費を払おうとしなかったんです。
(後に書きますが、決して最低な父ではないです)
少し払ってくれたとしても、父は「お前はなさけない奴やな」という言葉を頻繁にぶつけてきました。
こういった「経済的に貧しくて困る」ケースを体験しました。いわゆる「支援制度のエアポケット」の状態。数値的には貧困線を超えていたため、行政の支援対象に入りませんでした。
とてつもなく苦しかった日々。
母が私の教育費や部活動費を水商売などで必死に稼いでくれていました。
それでも、周囲の家庭と比べると満足に教育を受けるための道具、部活をするために必要な細々とした道具を買えないことも。
周りの人たちは流行りのゲームで盛り上がったり、サッカー部で新しいスパイクを自慢したり、学校帰りにマック(マクドナルド)に行ったりしていました。
それからです。
私が段々と周りの人たちとの関係が疎遠になっていったのは。
おまけに私が幼少期の頃から、母が父に何度も殴られている姿(DV)をみたり、私も殴られまくっていました。
母は身体中の骨を何本も折っていました。
私をかばいながらも……
小学生だった私は、こんな家庭の状況だったから、家に帰りたくなくて夜の街にかけだしていました。
けんか、万引き、放火、学校のガラス割りまくるなど
仲間と悪さをしている時だけが嫌なことを忘れて気持ちが落ち着く時間。
おかげさまで「クローズ」「ドロップ」「湘南純愛組(のちょっと真面目版)」のようなにぎやかな学校生活をすごし、先生には嫌われまくっていました。
もう心と頭がどうかしていました。
家族、悪さする仲間、先生、誰にも心の奥底にあるモヤモヤした気持ちを吐き出せなかったんです。
『GTO』、母、心友、恩師に救われ、夢をみつけた中学3年生の原体験が今の私を支えてくれている
中学2年生まで、体育と音楽以外の授業にはほとんど出ておらず、街でいろんな方にご迷惑をおかけするようなことばかりして、非行にはしっていました。
でも、人生の転機が中学3年生になったばかりの頃におとずれました。
2つの出来事が、今の私に大きな影響を与えています。
友達の家でたまたま読んだ『GTO』で「かっこいい大人」と出会った
今でも私のバイブル である『GTO(グレイトティーチャー鬼塚)』との出会い。
主人公の鬼塚英吉が、思春期ど真ん中で自分の感情を表現するのが難しかったり、頭でいけないと分かっていても悪いことをしてしまったり、将来への漠然とした不安に押しつぶされたりしているような生徒たちと日々、どこまでもまっすぐ向き合い、寄り添っていました。
「先生達なんて、自身の利益や立場を守ることしか考えていなくて、自分たちのことを一生懸命考えてくれていないや」と思っていた当時の私からすると、自分の立場なんて投げ捨ててでも、生徒のピンチにかけつけ、助けようと必死な姿をみて、「こんな大人もいるんだ!」と衝撃をうけました。
素直に「自分の立場や利益だけでなく、助けたい人を助けられるために一生懸命になれる大人になろう」と想い、心の何かが晴れた気がしました。
この大人像が、大学時代のNPO法人・自身で立ち上げた団体で、貧困・障害・いじめ・虐待に関する子ども達の力になれるための活動をし続けられた根っこです。
どんな悪さをしても笑って励ましてくれ、助けてくれた母が顔面蒼白になった三者面談
家に帰っても父から罵声・暴力をくらいつづけるから家に帰らず、学校にいっても冷たい目を向けてくる先生ばかりで学校にも行きたくなく、途方にくれて悪さばかりしていても、母はいつも笑って、「若いうちは仕方ないよ!」と言ってくれ、私を何度も何度も救ってくれました。
(私が20歳になった頃、校長室に行って何度も頭を下げていたこと、関係機関(警察、消防署、ショッピングセンターなど)に行っては謝罪をしていたことを知り、母の無性の愛を感じました)
そんな母が、私が中学3年生になって初めての三者面談で、私が「三重県でいける県立高校はない」と担任に告げられた時に、言葉では現しきれない魂がぬけたような表情になり、視線は遠いところを見ていました。
三者面談の帰り道、「あんたなら大丈夫」と笑って私を励ましてくれました。
私には分かりました。母はとても無理して笑って言っているなと。
「もうこれ以上、母に迷惑をかけられない」と心の中から何かがこみ上げてきて、私を変えました。
グレイトティーチャーミナミになる夢をみつけ、何度も挫折を味わった
この2つの出来事があり、私は授業に出るようになり、中学3年生からアルファベットや四則演算など初歩的なところから学びはじめました。
でもやっぱり、これまで勉強を全くしてこなかったツケがあり、授業がさっぱり分からず、何度も逃げ出しました。
そんな自分を、たった一人の先生だけが、必死に追いかけてくれ、放課後も勉強を教えてくれました。
その先生との時間と『GTO』から生まれた理想の大人像が結びつき、私は「グレイトティーチャーミナミ」になる夢を見つけました。
先生に先生になる方法を聞き、はじめて大学という存在を知り、それなりの高校に行く必要があると分かり、必死に勉強しました。
またしても、偏差値30…前後の私がそれなりの高校に行くための勉強が辛すぎて、もう夢を諦めようとしていた中学3年生の夏。
そんな自分に母・心友・恩師が似たような言葉をプレゼントしてくれました。
「せっかくそんなでけーいい夢を見つけたんだから、もう少しがんばってみよ!あんたには私(おれ)がついてるから」
私はこの言葉のおかげで、父との辛い生活もありながらも、歯を食いしばって勉強し、無事それなりの高校に進学でき、その後も大学に合格することができました。
自殺しようとしてしまったくらい辛かった日々があったからこそ、「人のあったかさ」という美しいものを実感できた
辛い現実が多すぎて、心が渇ききり、人生なんてどうでもいい、はやく死にたいと心底おもっていた中学2年生までの日々。
でも、そんな苦しい苦しい生活の中でも、母・心友・恩師をはじめ、高校時代・大学時代・会社員時代でお世話になった人に助けてもらったことで、「人にはあったかいものがあるんだな」と知れ、どんなに美しいことかと思っています。
私の父とも、私が22歳の頃に、「最低なことを私と母にしてきたが、父なりに辛いことがあり、あやまちを犯してしまっていたのか」と考えられるようになって、お酒を2人で呑んで泣きながら語ったことを機に、関係が少しは回復しました。
決して、私や母にしてきたことを許した訳ではありませんが、父なりに私や母のことを考え、不器用なりに考え、想いを尽くしてくれていただなと、今では思えています。
そんな父からも、「どんな人でも、やっぱりあったかいものがあるんだな」と知れることができました。
貧困・虐待・非行の辛い経験をできたからこそ、「人のあったかさ」を身に染みて感じることができ、社会にはこんなにも美しいものがあるんだと知れることができました。
私は、「人のあったかさ」があれば、社会問題が解決されつづける仕組みを創ることができると信じられ、「テクノロジーと人のあったかさで、社会問題が解決されつづける人の和をえがく」ビジョンを見つけられました。
社会問題の当事者・支援者・関係者様の実体験を記事にしていただきたいです。
私たちSHIROが運営するRemelosマガジンは、やさしい社会変革者で溢れる社会を創るために、「みんなでつくるWebメディア」を目指しています。
すでに日本にいる人に伝えたい、届けたいと願ってくださっている方に、実体験などをありのままの言葉で表現し、記事を書いていいただいております。
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【参考・引用元】
*1:厚生労働省公式サイト